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>>>或旅人の戯言

■明治維新150年

来年(2018年)は「明治維新150年」。つまり2018年−150年=1868年(明治元年)。ということで幕末維新にゆかりの深い地ではさまざまなイベントが予定されているようです。

ところでいつをもって「明治維新」とするかは少し微妙な問題です。

明治に改元されたのは、西暦でいえば1868年という年の後半の10月23日(改元前は「慶応4年」)です。ところがその前年の1867年に「大政奉還」さらにそれに続く「王政復古の大号令」という大事件が起こっていて、実質的に「明治新政府」が誕生していました。

改元された年ではなく、明治政府ができたときをもって明治維新とするなら、明治維新150周年というのは、来年ではなく今年(2017年)ということになりますね。

ところで「大政奉還」と「王政復古の大号令」の意味の違いがよく分からないという人がいます(私もそうでした。学校の日本史の授業ではあまりていねいに教えられないようです)。

大政奉還によって、徳川幕府は政権を朝廷に返しました。そこでもう徳川の時代は終わって新しい世の中が始まり、幕府に敵対していた人々も満足するんじゃないかという気になりますよね。

ところが実際は徳川幕府は(将軍・徳川慶喜は)、大政奉還で自分たちの権力を手放すつもりはさらさらありませんでした。形式的に政権を朝廷に返しても、実質的には徳川家の天下は続くだろうという見通しをもっていたのです。朝廷側は政権を急に返されても、日本を統治するためには最大の経済力と軍事力をもった徳川家に依存せざるを得ない。したがってたとえば、議会政治を取り入れて、いろんな藩のメンバーが政治に加わるようになっても、その首相や大統領といった地位に徳川家がつけばよいのです。

徳川慶喜は、討幕の動きを鮮明にしつつあった薩摩や長州の動きを牽制するために大政奉還という策を採用したのでした。

これに対して、討幕派は、「このままではいかん。新しい政府から徳川家を完全に排除する必要がある」との決意で、朝廷クーデターを起こしました。これが王政復古の大号令となったのですね。

詳しくは、「気まぐれ人物伝 〜徳川慶喜〜」をご覧くださいね!

[2017.01.23]
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■甘利氏と福澤諭吉

安倍内閣の閣僚としてTPP交渉の指揮を執ってきた甘利明氏が、民間会社との金銭授受問題により閣僚を辞任しました。こうした問題は政治家個人の資質というより、政治と金にまつわる制度と慣習をなかなか変えられないということにその本質があると考えるのですが、それはともかくとして、甘利氏がその退任の挨拶において「責任の取り方に対し、私なりのやせ我慢の美学を通させていただきました」という言葉が印象に残りました。

この「やせ我慢の美学」というのは、福澤諭吉の『痩我慢の説』を念頭に置いたものではないかという意見もあるようです。福澤の「痩せ我慢」には、「武士の意地」ともいうような情念が込められていますし、甘利氏の「潔さ」がいかにも武士らしいという声も聞かれるようです。じっさい、甘利氏の祖先は武田信玄の側近中の側近だった甘利虎泰(あまりとらやす)であるとされていて、甘利氏自身もそうした武将の末裔であるという意識と誇りを大事にしているのかもしれません。

福澤諭吉の『痩我慢の説』は、明治24年(1891年)に著された論説で、日本が国際社会の中で強国と対等に渡りあっていくためには、痩せ我慢の精神が必要であることを説いたものです。
「痩せ我慢」というと、内心では弱っていたり困っていたりしているのに本音を隠して強がりを言ったり平静を装うというような意味に使われるようです。どちらかと言えばあまりポジティブなイメージではないですね。

しかし福澤はこうした痩せ我慢こそが重要であると言います。それは前時代でいえば「武士の意地」というものに当たり、しかし「武士は食わねど高楊枝」のような単なる見栄っ張りを指すものではありません。
たとえ自分は敵よりも実力が劣っていて、戦ってもおそらくは敗北するであろうことが分かっていたとしても、重要なことは勝つか負けるかという結果ではなく、終始、闘争精神を持ち続けることである、ということです。

もし痩せ我慢の精神がなければ、弱者はいつまでも強者の家来でなければならず、小国は大国の傘下にいなければなりません。福澤が強調するのは、まずは痩せ我慢の精神を持って臆することなく周囲の「敵」と対等に向き合い、内では自らを研鑽し鍛えつつ、弱者から強者への地位へと自分を引きあげていこうということです。当然これには、被植民地化の危機感をつよく持っていた明治日本の現状がありました。

福澤はこうした見地から、幕末時に戦わずして江戸城を明け渡してしまった勝海舟を批判しています。たとえ時勢の利が幕府側になかったとしても、幕府は薩長勢を相手に徹底抗戦し、どうしても勝利できないことを覚った時点で城を枕に討死にすべきであったといいます。勝と西郷の会談によって平和裏に江戸城明け渡しが行われたことにより、多くの人命と財産が救われたことも事実ではあるが、それよりも最後まで戦い抜くという敢闘精神が萎えてしまい、日本の将来にとっては決してプラスにならないと主張しているのです。

こうした福澤の主張からいえば、甘利氏の言葉と行動は果たして一致しているのか(福澤諭吉の『痩我慢の説』を意識しているのであれば)ちょっと疑問に思えるところですが…。
武将・甘利虎泰は、武田信玄が信濃進出を目指して村上義清と対戦した上田原の戦い(天文17年[1548年])において奮戦むなしく戦死しました。敵の矢を受けて主君の馬前に討死にするという武者としての理想的な「死に様」を、甘利氏は美学と表現したのかもしれません。

[2016.01.30]
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