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>>>旅人の戯言

■甘利氏と福澤諭吉

安倍内閣の閣僚としてTPP交渉の指揮を執ってきた甘利明氏が、民間会社との金銭授受問題により閣僚を辞任しました。こうした問題は政治家個人の資質というより、政治と金にまつわる制度と慣習をなかなか変えられないということにその本質があると考えるのですが、それはともかくとして、甘利氏がその退任の挨拶において「責任の取り方に対し、私なりのやせ我慢の美学を通させていただきました」という言葉が印象に残りました。

この「やせ我慢の美学」というのは、福澤諭吉の『痩我慢の説』を念頭に置いたものではないかという意見もあるようです。福澤の「痩せ我慢」には、「武士の意地」ともいうような情念が込められていますし、甘利氏の「潔さ」がいかにも武士らしいという声も聞かれるようです。じっさい、甘利氏の祖先は武田信玄の側近中の側近だった甘利虎泰(あまりとらやす)であるとされていて、甘利氏自身もそうした武将の末裔であるという意識と誇りを大事にしているのかもしれません。

福澤諭吉の『痩我慢の説』は、明治24年(1891年)に著された論説で、日本が国際社会の中で強国と対等に渡りあっていくためには、痩せ我慢の精神が必要であることを説いたものです。
「痩せ我慢」というと、内心では弱っていたり困っていたりしているのに本音を隠して強がりを言ったり平静を装うというような意味に使われるようです。どちらかと言えばあまりポジティブなイメージではないですね。

しかし福澤はこうした痩せ我慢こそが重要であると言います。それは前時代でいえば「武士の意地」というものに当たり、しかし「武士は食わねど高楊枝」のような単なる見栄っ張りを指すものではありません。
たとえ自分は敵よりも実力が劣っていて、戦ってもおそらくは敗北するであろうことが分かっていたとしても、重要なことは勝つか負けるかという結果ではなく、終始、闘争精神を持ち続けることである、ということです。

もし痩せ我慢の精神がなければ、弱者はいつまでも強者の家来でなければならず、小国は大国の傘下にいなければなりません。福澤が強調するのは、まずは痩せ我慢の精神を持って臆することなく周囲の「敵」と対等に向き合い、内では自らを研鑽し鍛えつつ、弱者から強者への地位へと自分を引きあげていこうということです。当然これには、被植民地化の危機感をつよく持っていた明治日本の現状がありました。

福澤はこうした見地から、幕末時に戦わずして江戸城を明け渡してしまった勝海舟を批判しています。たとえ時勢の利が幕府側になかったとしても、幕府は薩長勢を相手に徹底抗戦し、どうしても勝利できないことを覚った時点で城を枕に討死にすべきであったといいます。勝と西郷の会談によって平和裏に江戸城明け渡しが行われたことにより、多くの人命と財産が救われたことも事実ではあるが、それよりも最後まで戦い抜くという敢闘精神が萎えてしまい、日本の将来にとっては決してプラスにならないと主張しているのです。

こうした福澤の主張からいえば、甘利氏の言葉と行動は果たして一致しているのか(福澤諭吉の『痩我慢の説』を意識しているのであれば)ちょっと疑問に思えるところですが…。
武将・甘利虎泰は、武田信玄が信濃進出を目指して村上義清と対戦した上田原の戦い(天文17年[1548年])において奮戦むなしく戦死しました。敵の矢を受けて主君の馬前に討死にするという武者としての理想的な「死に様」を、甘利氏は美学と表現したのかもしれません。

[2016.01.30]
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■江戸時代の照明

青色LED(発光ダイオード)の開発業績により、またまた日本人がノーベル賞を受賞することになりました。たしかちょっと前までは、「青色LEDは作成するのが難しいため、(光の3原色が出揃って)白色をはじめいろんな色の光をLEDで再現できるのはいつのことになるかわからない、できたら夢のような話だ」などというふうに言われていた記憶があるのですが、いったんできてしまうと、LED照明が普及するのはあっという間でしたね。

いまではLEDにしろ白熱電球や蛍光灯にしろ、電気を利用することで簡単に光をつくりだすことができますが、日本では明治時代より以前は、電気の存在は知られていませんから(例外的に平賀源内とか佐久間象山のように、西洋の本を読んで電気工作に挑戦するというような「変わり者」はいましたが)、何かを燃やしてその炎によって明かりをとるという方法が使われていました。照明器具でいえば行灯(あんどん)やろうそくなどです。

ろうそくはハゼノキなどの木の油脂を原料にしたもので、作るのに非常に手間がかかり高価なもので、江戸の職人が1日働いて得た賃金でやっと1〜2本のろうそくを買えるくらいの貴重品だったようです。これでは夜更かしをする人なら収入のほぼ100パーセントが光熱費!(しかも「光」だけ) したがって、庶民の家屋の照明器具は、菜種油や魚油などを燃やして明かりをとる行灯が多かったようです。それにしても油代は安くはないので(とくに菜種油は高級品)、貧乏人は暗くなるとさっさと寝てしまうしかありませんね。

幕末の嘉永6年(1853年)に、アメリカ合衆国はペリーの黒船艦隊を日本に派遣して開国をせまりました。アメリカは当時、照明用や機械用の油を手に入れるために捕鯨を盛んに行っていたため、その捕鯨船の寄港地として日本を利用したいという思惑があったのです。

ちなみに、日本で初めて電気による照明を人々が目にしたのは、明治15年(1882年)に東京・銀座に設置されたアーク灯でした。アーク灯は電気の放電現象(コンセントからプラグを抜くときに、バチッという火花が飛ぶのと同じ現象)を利用したものです。これは、エネルギー効率や使い勝手の面からも家庭用としては実用的ではありませんでした。電気による安定した光を人類が手に入れたのは、エジソンが1879年(明治12年)に実用化した白熱電球によるもので、日本では明治20年ころから徐々に普及が始まっていくことになります。

LEDは、ろうそく、白熱電球、蛍光灯に続く「第4世代の光」と言われます。エネルギー効率や使い勝手の点からも素晴らしい発明であることは確かでしょうが、他のいろんな道具と同様、原始的なものほど「暖かい感じ」がするのは真実なのか気のせいなのか、あるいはあまのじゃくなだけなのか、自分も含めてそういう思いを抱く人はそう少なくないのでは、と感じるこの頃です。

[2014.11.6]
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■150年前の話

今年は2013年。幕末のころなどはるか昔のように思えますが、今からたった150年さかのぼっただけで、時は1863年(文久3年)! ばりばりの幕末真っ盛りです。西郷隆盛も生きてますし、坂本龍馬も勝海舟も高杉晋作もみんなぴんぴんしてます。新選組のファンなら、京都へ行けば市中を回っているナマの土方歳三や沖田総司に会えるんです! 思えばものすごいキャラに溢れた時代ですね。

150年というのは長いか短いか−−。人の人生に比べればずいぶん長い時間のように思えますが、考えてみれば75歳の人のたった2人分です。2人の人が時間リレーをすればもう150年というのは届いてしまう距離なんですよね。自分の時間感覚でも、若いころは10年というとかなり長い年月のように感じましたが、年とってくると、10年20年あっという間です。ましてや150歳になったころには。。^^;

ところでその150年前の文久3年は、幕末史が大きく転換する節目の年でした。何が起こったかというと、それまで尊皇攘夷の親玉だった長州藩が政治の表舞台から消えてしまったんですね。
文久3年の前半までは長州藩は順風満帆だったんです。松下村塾出身の秀才・久坂玄瑞らが中心となって京都の朝廷(攘夷派公家たち)を金と言論で操り、天皇からの勅命を濫発させ、将軍家茂を京都にまで引っ張りだして攘夷の実行を約束させるなど、長州は得意の絶頂にありました。ところが長州ばかりが羽振りをよくしていると、必ずそれを妬む者が出てきます。それが薩摩藩でした。

この年の8月18日の早朝、薩摩藩は会津と組んで、御所の門(九門)を軍隊で固め、長州派の公家7人をお役御免にし、長州の御門警備の任も解きました。こうして長州勢を京都から追い出すクーデターを決行したんですね。長州藩兵たちは7人の公家を連れて都落ちとなりました。これ以降、長州は「王政復古の大号令」が出るまで、京都で復活することはできませんでした。

この「八月十八日政変」で長州は都を追われ、さらに次の年の「禁門の変」でまたもや薩摩・会津と今度は軍事衝突をして敗れ、ますます薩摩と会津への恨みを深くしていきました。
この恨みが幕府崩壊後の会津戦争のときに爆発したと言われています。新政府軍が会津の人々を虐殺し死者さえも蹂躙したとして、長州人に怨嗟の念が集中します。今度は会津人が長州人を恨む番になったんですね。
いまだに会津の人の中には、長州(山口県)人とは縁組みしたくないなどという話を耳にします。150年くらいの時間では、恨みは簡単に消えないということでしょうか。国家間のレベルではまさに今日本がかかえている問題のひとつですね。歴史に刻印されてしまったものは、それが事実か印象かに関わらず、変えていくのは非常に難しいものだと感じさせられます。

[2013.3.8]
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■オリンピックは平和の祭典?

日本が過去最多のメダルを獲得したロンドンオリンピックも無事終わりました。

オリンピックといえば、「平和の祭典」という代名詞で表されることがよくあり、その言われをたどると、「古代ギリシア時代、オリンピックが開催されているときは、ポリス間で戦争をしていてもそれを中止してスポーツの祭典に興じた」とされていることが多いようです。

ちなみにポリスというのは、「都市国家」と訳されていて、文字どおりひとつの都市がひとつの国家を為している状態です。古代ギリシアには統一政権というものが存在せず、多くのポリスが互いに覇を競いあっており、ポリス間には戦争が絶えることがありませんでした。しかしギリシアの神々を祀る神殿で大きな祭典が行われるときは、ギリシア内の各ポリスから使節が派遣され、祭典が行われる神殿に集まりました。その祭典の場でスポーツ競技も開かれるようになったんですね。

その最大のものが「オリンピア祭」でした。エリスという有力ポリスがオリンピア地域で主催していた祭典なんですね。オリンピア祭の開催が近づくと、エリスからギリシア中のポリスに参加を要請する使者が派遣され、同時に祭典期間中の停戦協定(エケケイリア)が結ばれました。

しかし、間違われやすいのは、オリンピア祭の期間中停戦したのは、主催するエリスと各ポリス間のみであって、エリス以外の各ポリス間同士にはこの停戦協定は無効だったということです。つまり停戦協定を結んだ理由は、オリンピア祭が「平和の祭典」だからではなく、エリスが滞りなくオリンピア祭を開催するための手段だったんですね。

こないだ初めて知った意外な事実でした(^^;

[2012.8.17]
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■「鞆の浦の史跡」をアップしました

かつて「潮待ちの港」と呼ばれた瀬戸内海の小さな港町・鞆の浦は、江戸時代までは海上交通の要所として栄えたところです(現在は広島県福山市の一部)。潮の満ち引きのとき、鞆の浦の沖合いで東西の潮の流れが変わるため、多くの船は「ここらあたりでひと休みしようか」ということで、この鞆の津に立ち寄ったようです。

明治以後、鉄道(後の山陽本線)が開通すると、路線から離れた鞆の浦は徐々に近代化の流れから取り残されていくようになりました。現在も街中の道幅はたいへん狭く、車の通行はスムーズにはいきません。こんな「不便」なところだからこそ、昔の風情がたっぷりと味わえるのでしょうが。

幕末史の中での鞆の浦は、坂本龍馬率いる海援隊の「いろは丸」が、紀州藩の「明光丸」と衝突した「いろは丸事件」の談判の場として有名です。また、幕末の少し前には、頼山陽が鞆の浦に滞在し、のちの尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた「日本外史」の執筆を行ったと伝えられています。

風光明媚ではありながら交通の不便な鞆の浦では、港の一部を埋め立ててバイパス道路を建設しようという動きがあります。反対運動も根強いようですが、もし道路ができたら、ひなびた港町・鞆の浦の魅力は半減し、観光客も減ってしまうのではないでしょうか。そうなる前に、まだ鞆の浦に行ったことのない方はぜひ一度訪ねてみることをおすすめします。観光地化が最小限に抑えられ、「古き良き日本の町」が自然な雰囲気で味わえる数少ない場所のひとつであることは間違いありません。

[2011.12.1]
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■「タイムマシン」の可能性!?

物理学界をゆるがすとんでもないニュースが飛び込んできました。なんと、ナゾの素粒子とされてきたニュートリノが、光の速度よりも速く飛ぶことができるというのです!!

この驚くべき報告を行ったのは、スイス・ジュネーブにある欧州合同原子核研究機関(CERN)の実験グループで、日本の大学のメンバーもこれに参加しているということです。

実験グループによれば、CERNの加速器でニュートリノを打ち出し、イタリアまで730キロメートルの距離の移動にかかる時間を計測した結果、光の速度より0・0025%速く飛んだことがわかったそうです。

もし、この観測結果が事実ならば、相対性理論の基礎となっている「光の速度が宇宙で最も速い」という前提がくずれ、物理の世界を根底からゆるがす事態になることでしょう。

光より速く飛ぶということは、過去に向かって走ることができるということを意味します。

たとえば、東京を正午12時に出発する新幹線が、新大阪に午後2時30分に着くとします。これは現在の技術で可能なごく普通の移動の仕方ですが、もしこの新幹線を好きなだけスピードアップすることができるとすれば、当然到着時刻は早くなっていきます。ロケットなみのスピードになれば、12時に出発して、12時1分に着くことも可能でしょう。

そして、仮に光のスピードになれば、12時に出発した新幹線が新大阪に着く時刻は、同じ12時ぴったり。つまりノータイムで新大阪に着くことになります。(ただし、ノータイムなのは新幹線に乗っている乗客にとって、ということであり、外から見ている人にとってはごくわずかながら時間がかかります)

そして、さらに光のスピードを超えれば、12時に出発した新幹線が新大阪に着く時刻は11時50分!ということも可能になります。所要時間がマイナスになり、つまり時間をさかのぼることになるのです!

時は過ぎゆく一方。人生は短く、あれよという間に歳をとる一方…となげく必要はなくなるかもしれません。「ひかり」より速い列車を「のぞみ」と名付けたのは、JRの先見の明でしょうか。

しかし実際は、残念ながらたとえニュートリノが超光速粒子であったとしても、それを利用して人間が過去にさかのぼることは、まず当分は(..?)不可能でしょう。

ただ、なんらかの形でニュートリノの運動を利用して、過去の情報を取り出すことができる日が来るかもしれません。深海に探査船をもぐらせて知られざる海中の情報を探すように、時間の海の中を遡らせて、深淵に隠れた歴史の真実を引き揚げ、白日のもとでそれをじっくりと眺めるときが来るかもしれません。そうしたことを想像するだけでなんだか楽しくなってきますね。

[2011.9.24]
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■地球が暑くなっていく!

長州へ帰省(参勤交代)する途中、京の都に立ち寄りました。昔、2年ほど住んでいたことがあるのですが、内陸の盆地である京都の夏はすごく暑いです。温暖化でますます暑さが厳しくなってきているように思えます。

そういえば、最近は地球温暖化という言葉を以前より聞かなくなったようです。震災でそれどころじゃないということなんでしょうか。しかし、温暖化は着実に進んでいます。

どうも、研究者の一部に「CO2が本当に温暖化の主原因かどうか疑わしい」という論調があり、経済を減速させたくないと考えている人々がそれに同調して、専門外の庶民までもがなんとなくそうしたことを信じ始めているといった風です。

しかし、もし仮にCO2など温室効果ガスの排出が主原因でないにしても、温暖化が進んでいることは、ここ数十年の気候変動を見れば否定しようがありません。北極、南極の氷は確実に少なくなり、世界各地の氷河はどんどん後退し、海水温は上がり続けています。とくに海水温が上がることは非常に困ったことです。

もし、温室効果ガスの他に、地球の平均気温を上げている大きな原因があると仮定するならば、それは何であるかを全力を挙げて突き止め、すぐにその対策を講じるべきでしょう。 しかし、温室効果ガス犯人説に懐疑的な人間は、ただ懐疑を投げかけるだけであって、ではどうすればいいのか、真剣に考えている人間はほとんどいません。 こんなことで地球は大丈夫なんでしょうか。

日本でいえば、たった150年ほど前までは、誰も電気も石油も使うことなく、生活をしてきました。江戸時代というのは、実に地球に優しい時代で、まあそれ以前の時代も優しいのではありますが、江戸時代のよさは、人々がおおむね平和な時代を送り、高度な文化を発達させ、純粋に「日本的な」風俗を楽しむことができた時代ではないかと思います。

幕末期に渡来した外国人が、「日本人は皆明るくて幸福そうに生きている」というような印象をもっていたようですが、たしかに、現代の日本人に比べて、江戸の民衆の幸福度はかなり大きかったといえるのではないでしょうか。

[2011.8.15]
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■日本一カッコイイ役人 中島三郎助

NHKの歴史番組「歴史秘話ヒストリア」前々回は、幕末の忠臣・中島三郎助を取り上げていましたが、なかなかすばらしい内容でした。

私は中島三郎助について、函館戦争で父子ともども戦死したことくらいの認識しかなかったのですが、番組でネーミングしていたように、「幕末の最初と最後に立ち会った男」だったんですね。そして「真のラストサムライ」の一人でもあったんですね。

浦賀奉行所の一与力として、真面目な役人生活を送っていた三郎助は、嘉永6年(1853年)6月にペリー艦隊が浦賀に現れたとき、真っ先に折衝の任に当たります。アメリカ側から「幕府の高官でないと話をしない」と言われ、とっさに「浦賀の副奉行」と偽って旗艦サスケハナ号に乗り込みます。
場合によっては切腹沙汰にもなりかねない身分の騙りですが、来航の目的をただし艦船の様子を調べることが急務と信じた三郎助は、勇気ある決断をして「敵中へ」飛び込んでいったのでした。

徳川幕府の終焉期である「幕末」は、ペリー来航から始まりますから、ペリー艦隊に最初に接触した三郎助は、たしかに幕末の最初に立ち会った男ということになりますね。

その後、三郎助は、海防力増強をめざす幕府の方針のもと、地方奉行所の一官吏から、造船、海軍の専門家への道を歩み始めます。日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」建造の中心として活躍、長崎海軍伝習所に勝海舟らとともに第一期生として入所、そして江戸に帰還して築地軍艦操練所の教授に就きます。
役務に忠実で研究熱心、技術者としての才能にも恵まれていた三郎助は、幕府関係者はもちろん諸藩の士からも高く評価されました。造船の知識を授けられた長州藩士・桂小五郎は、終生にわたり三郎助を師と仰ぎ、三郎助の死後も彼の遺族を支え続けたということです。

三郎助は、咸臨丸を修理し、太平洋を横断させるという快挙を成し遂げますが、勝海舟と不仲だったせいか、その栄光の航海に三郎助の姿はなく、その後、三郎助は健康上の理由によって海事の一線から退き、再び浦賀奉行所の一役人に戻ります。

一方、世の中は、反幕府勢力の伸長とともに混迷を深め、ついに徳川幕府は大政を奉還、鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府軍は敗退を続け、ついに江戸城も開城。三郎助が勤めていた浦賀奉行所も薩長(新政府)軍に抑えられました。

江戸城が明け渡された時点で、名実共に江戸幕府は滅びたといってよいでしょう。幕府に仕えていた多くの人々は、爾後の生活のため新政府側に雇用されたり、新しい職に就くことを考えました。

しかし三郎助のとった道は、これまで代々禄を受けてきた幕府への恩に報い、義を貫くことでした。彼は、新政府軍に反旗を掲げて江戸湾を出港した榎本武揚の艦隊に身を投じ、2人の息子とともに函館戦争に参加したのです。

造船、航海、砲術、事務能力の技術にもすぐれ、人望も厚い三郎助は、その気になれば破格の待遇で新政府の仕事に就くこともできたはず。事実、桂小五郎は三郎助を新政府に招聘しようと居場所を探し回りました。
新選組のように、最初から反幕勢力との戦闘に参加してきた戦士たちならば、今さら降伏など考えも及ばず、死に場所を求めて旧幕府軍に殉ずる...ということもある意味自然な成り行きだったでしょうが、幸福な家庭ももち、過激な武闘家でもなかった(もともと砲術の専門家ではありましたが)中島三郎助が、なぜ滅び行く幕府に忠義立てをし、命を捧げるような行動に出たのか。この点はたいへん興味深いところです。榎本海軍はこうした選ばれし「ラストサムライ」たちを載せて北へ旅立ったのでした。

三郎助は、五稜郭の外側にある千代ヶ岡陣屋を守備する隊長となり、昔の奉行所の仲間たち、そして自らの息子たちとともに、新政府軍と戦います。戦局は厳しく、榎本武揚からは五稜郭内に撤収するよう指示が出るのですが、三郎助は「拙者の持ち場はここだ。ここで死ぬのだ!」と一蹴し、使者を追い返しました。こんなカッコいい役人は前代未聞です。

時代の流れに乗って新政府軍が到来し、旧い社会が壊される。移りゆく時代のなかで、三郎助は「守るべきものを守りたい」と思ったのでしょうか。おそらく彼は、世の中で真に大切なものは何かということをしっかりと見抜いていたのでしょう。そうでなければ命をかけてまで、しかも自分の2人の息子までも道連れにして戦えるはずがありません。

明治2年(1869年)5月16日、中島三郎助は、長男恒太郎・次男英次郎とともに北の大地に散っていったのでした。そのわずか2日後に榎本武揚は降伏し、戊辰戦争は終了。同時に「幕末」も文字どおり終焉を迎え、中島三郎助はたしかに幕末の最後に立ち会った男となりました。千代ヶ岡陣屋があった場所は、のち「中島町」と名づけられ、現在では毎年「中島三郎助まつり」が5月に行われているということです。

(歴史秘話ヒストリア「世にも数奇なラストサムライ 幕末・中島三郎助」は、7月27日(水)に再放送があります)

[2011.7.19]
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■歴史のIFはすべて存在する!?

先日に続いて宇宙物理的なネタをひとつ。

理科系の専門の方には言うまでもないことですが、現代の理論物理学を支える基本的な理論として、相対性理論と量子論があげられます。相対性理論は時空間や光の性質を明らかにしたもので、一方、量子論(量子力学)はミクロの視点からもっと根源的な「モノの在り様」を研究する分野です。その量子論の考え方のひとつに「パラレルワールド(平行宇宙)」というものがあります。

ほとんどの人が一度は考えたことがあるでしょう。
「もしあのとき別の道を選んでいたら、自分の人生はもっとハッピーになっていたのではないか」「もしかすると今の自分は夢の中にいて、本当の自分はどこか別のところで別の人生を送っているのではないか」などと。

量子論のパラレルワールド(多世界解釈)的な思考によれば、こうしたことも単なる想像には終わらせません。物理学的に「あり」なのです。

たとえば、コインを投げて表裏のどちらが出るかを観測するとします。当然のことながら、表が出たら裏は出ないし、裏が出れば表は出ません。結果はどちらかひとつに決まります。

仮に表が出たら10億円もらえるとしましょう。その代わり裏が出たら全財産を奪われるとします。ものすごい丁半バクチです。

この究極のコイントスで、不幸なことに裏が出てしまいました! あなたは一瞬にして全財産を失い、暗黒の世界に突き落とされます。そして多くの人は、「もしあのとき表が出ていたら! こんなこともあんなこともできたのに!」というむなしい空想を引きずりながら生きていくことでしょう。
でも空想はあくまで空想。その勝負でコインの表が出たという世界は存在しないのです。

というのが、普通の考え方です。ところがパラレルワールド(多世界解釈)の考え方は違います。コインが空中に投げられ、それが地面に落ちて、あなたが表か裏かを観測した瞬間に、世界は2つに割れるのです!

どういうことかというと、1つの世界のなかでコインの表裏が決まるのではなく、「あなたがコインの表を観測した世界」と「コインの裏を観測した世界」の2つに分かれるというのです。そのどちらにも「あなた」がいます。この2つの世界は平行して存在します。つまりあなたが大金持ちである世界と大貧乏である世界とが両方存在するのです。

このように、あなたが物事を観測するたびごとに、世界はどんどん枝分かれしていきます。

ただしあなたが実際に認識するのは、ひとつの世界だけです。
たとえば人生の分岐点で、右に進んだ自分と左に進んだ自分とが連絡を取り合うことはできません。「オレは右に進んだけど、左の道はどうだったかすごく気になってる。そっちの様子を知らせてくれよ」と、もう一人の自分に頼むことはできないのです。それぞれの世界にいる自分が唯一の自分だと思っているのです。

このパラレルワールドの考え方が正しいかどうか、残念ながら実験で検証することは不可能です(少なくともこの世に生きる人間にとっては)。ただそう解釈しても矛盾なく物理現象を説明できるというだけのことです。
しかし、このパラレルワールドの考え方を含め、量子論が主張するさまざまな理論には、従来の科学の常識をくつがえす斬新な思想があふれています。今後どんな研究が進められていくのかたいへん興味深いものがあります。

私たちが知っている日本の歴史、世界の歴史は、たった一通りですが、本当は今の世界の自分が知らないだけで、別の歴史がパラレルに存在しているのかもしれません。

「もし桶狭間で信長が敗北していたら」、「関ヶ原の戦いで小早川秀秋が裏切らなかったら」、「吉田松陰が密航に成功し、松下村塾を開いていなかったら」、「乙巳の変(大化の改新)で、中大兄皇子が蘇我入鹿の暗殺に失敗していたら」など、無数の歴史のIFが働き、それに応じたいろんな歴史のパターンが物理的な意味で存在するかもしれないのです。私たちの知らないところで。

もちろん証明はできません。でも今私たちが知っている(知らされている)「科学の常識」と、「人間の心(感覚的なもの、直感のようなもの)」との間には、相容れないギャップがいくつもあることも確かです。「人間の心」も同じ宇宙の中で、宇宙の法則によって創りだされたというのに。
もしかすると、人間に想像力があるという事実が、パラレルワールドの存在を暗に裏付けているのかもしれませんね。

(パラレルワールド(多世界解釈)について概要をお知りになりたい方は、『もう一つの宇宙』(フレッド A.ウルフ著)/ブルーバックス・講談社 がオススメです。また『「量子論」を楽しむ本』(佐藤勝彦監修)/PHP文庫 は、かなり専門的なことが非常に分かりやすく解説してあり、これまたオススメです)

[2011.6.13]
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■龍馬暗殺犯と宇宙の真実

坂本龍馬は、自らその実現に大きく寄与した「大政奉還」が実現した直後の慶応3年(1867年)11月15日、京都・近江屋で何者かに襲われて命を落としました。このときNHKはちょうど近江屋での龍馬の様子を中継していて、「坂本龍馬、暗殺される!」のニュース速報をテロップで流したつもりだったのですが、実際には違う内容のテロップとなり、倒幕派、佐幕派両方から激しい攻撃を受けたということです。

冗談はさておき(^^;、このとき龍馬を手に掛けた犯人はご存じのように、確定されてはいません。見廻組の佐々木只三郎がもっとも怪しいと言われていますが、なにぶん百数十年も昔のことで確たる証拠も見つかっていないため、真相は霧につつまれています。

では、龍馬を暗殺した犯人は永遠にわからないのでしょうか? いや、それがわかるかもしれないのです!

今は2011年。龍馬が暗殺されたのは1867年ですから144年前の出来事ということになります。ということは、地球から145光年ほど離れた星に誰かが住んでいるとすると、その人が見る地球は145年前の姿ですから、仮にものすごく性能のよい望遠鏡を地球に向ければ、まだ龍馬が生きている日本を見ることができるということです。

人の顔が見分けられるくらいのものすごい分解能の望遠鏡なら、それを近江屋に向けてじっと観察していれば、11月15日当日誰が近江屋に入っていったかわかることでしょう。光学望遠鏡でなく特殊な電波望遠鏡で受信したデータを解析すれば、建物の中で何が起こっていたかを知ることも可能かもしれません。

問題は、145光年(あるいはそれ以上でもよいですが)離れたところに、都合よく望遠鏡や高性能の装置を持った人がいて、しかも都合よく近江屋の観察を続けていたとしても、そのデータを親切に地球人宛てに送ってくれなければ、こちらはそれを知ることができないということです。

もし、どうしてもその様子を自分の目で見たければ、144年前に地球を出発した光を追いかけ、それに追いつかなければなりませんが、相対性理論によって、物体はどんなに加速しても光のスピードに達することはできません。超高速ロケットに乗って追いかけても、近江屋から出発した情報に追いつくことはできないのです。

するとやはり、龍馬暗殺の真実を知ることはできないのでしょうか。

しかし! ここでもうひとつの宇宙の性質が助け舟を出してくれます。それは「宇宙は閉じている」という事実です。私も専門的なことはよくわかりませんが、時空間が閉じているという性質により、地球から出発した光は、宇宙をぐるっと一周してまた帰ってくることができるということです。たとえば日本から東へ向けて旅立った船が西から帰ってくるということと同じです。

ということは、慶応3年(1867年)11月15日の近江屋の様子(=近江屋から宇宙に向かって放たれた光)は、またいつか地球に戻ってきて、われわれの前に真実を明らかにしてくれる可能性があるということです! 
「隠れたるものも、いつかすべて白日の下にさらされる」という言葉は、物理的にも真実なのかもしれません。ただしそれは相当遠い未来のことになるでしょうが。

以上は、かなり現実離れした話でしたが、「東へ向けて航海すれば西から帰ってくることができる」という事実は、地球が丸いことさえ知らなかった大昔の人にとっては、驚き以外の何ものでもなかったでしょう。
日本人で最初に地球が丸いことを知った一人として、織田信長があげられます。

キリスト教宣教師の信長への献上品の中に地球儀があり、それを見た家臣たちが理解できなかったところ、信長のみはすぐに納得したと言われています。やはり、古い価値観に捕らわれない信長ならではの逸話といえるでしょう。

[2011.5.29]
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■三菱と三菱鉛筆

岩崎弥太郎といえば、三菱グループの祖。地下浪人という貧しい家に生まれた弥太郎は、土佐藩の参政・吉田東洋の塾に入り、その才覚を認められたことから、出世の道が開けます。

開明的な吉田東洋は、尊皇攘夷をかかげる土佐勤王党(主宰・武市瑞山)の手によって暗殺されましたが、その遺志をついだ甥の後藤象二郎は、土佐藩の商社とも言うべき「開成館」を設立しました。藩をあげて商いを盛んにし、富国(藩)強兵に努めようというのがその目的です。

そして開成館の出先機関として、大阪と長崎に「土佐商会」をつくり、後藤象二郎は長崎の土佐商会の主任に岩崎弥太郎を任命しました。こうして長崎での土佐藩の貿易を一手に任せられたことが、その後の「三菱」創設の礎となったといえます。

大河ドラマの『龍馬伝』では、弥太郎と龍馬は少年時代から知己であったように描かれていますが、これは創作で、おそらくは弥太郎が土佐商会の主任になったとき、龍馬の海援隊(亀山社中)の会計をも任されるようになって、互いを知るようになったといわれています。といってもこのときはすでに大政奉還の半年ほど前で、大政奉還の翌月に龍馬は暗殺されていますから、実際に付き合いがあったのはごくわずかということになるでしょうか。

話は変わりますが、あの三菱のロゴマークがついた「三菱鉛筆」。小学生のころからお世話になってきた鉛筆ですが、この三菱鉛筆は、現在の「三菱」グループとは関係のない会社ということをご存じでしたか? 私はつい最近知ってびっくりしました。マークの形もそっくり同じで社名が同じ。当然、電気製品などを製造している「三菱」が鉛筆も作っているんだと、子供のころから信じて疑いませんでした。

三菱グループウェブページでは、このように誤って思いこんでいる人のために、わざわざ「三菱鉛筆は三菱グループ企業ですか?」というQ&Aが載っていて、三菱鉛筆のサイトも紹介されています。そこで三菱鉛筆のページを見ると、そこには三菱グループのことには触れられておらず、商標の起源として、三菱鉛筆創業者の家の家紋からあの三菱マークの図案がつくられたという記述がありました。(岩崎弥太郎が設立した三菱のマークは、土佐藩・山内家の家紋が元になっていますね)

弥太郎・三菱の正式な出発点は、明治6年(1873年)の「三菱商会」ですが、三菱鉛筆のほうも、創業は明治20年(1887年)と歴史があり、例の三菱マークは三菱鉛筆の方が先に使い始め、さらに過去、財閥時代の三菱からグループ入りのオファーを受けるもこれを拒否したという歴史を持っているようです。「芯の強い(^^;」会社を目指してきたということでしょうか?

[2011.5.19]
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■日本初の発電所

3月11日の大地震の影響で、福島原発の危機的状況が続いています。私は原発というものは、どんな状況に至ってもそれに対応するマニュアルが厳重に準備されていると思っていたのですが、事実はまったくそうではなかったようです。こういう事にこそ、最新のコンピュータシミュレーションを駆使し、あらゆる状況を想定して事前対策を施しておくべきだと思うのですが。
はっきりしたのは、作業員が近づけないほど放射線量が上がってしまえば、もう手の施しようがなくなり、あとは最悪の事態に向かうのをただ傍観するしかないという恐ろしい事実です。
東電と政府の無策と愚行は問題外としても、そもそもこんなアブナイ物を使わないと現在の文明が維持できないという点を根本から考え直さないといけないですね。

ところで、日本は江戸時代まで電気などまったく不要な暮らしを続けてきたわけですが、明治に入ってから照明や電信などの施設を皮切りに電気の需要というものが急激にわき起こってきました。電気を使った街灯(アーク灯)は、1882年(明治15年)に銀座で灯されました。
その後、電力需要はどんどん増えてきて、日本で初めての発電所(火力発電所)が、1887年(明治20年)に、東京電灯会社(現在の東京電力の前身)によって作られたということです。

ところが、鹿児島にはそれよりもさらに古い発電所の記録があります。幕末の薩摩藩の名君・島津斉彬は、鹿児島・磯の集成館に、水力を動力とする施設の建設を計画し、その後斉彬の子・忠義が1882年(明治15年)に小規模な水力発電所として完成させたらしいのです。この記録は確かではありませんが、磯庭園にはこの発電所の跡が現在も残っています。

【参考】「ふくろう先生の脱原発新聞」

[2011.4.16]
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■「会津」をアップしました

先日ようやく「会津の史跡」をまとめてアップしました。久々の更新です。本当は『龍馬伝』が終わるまでに「史跡編」「人物編」を作り終えたかったのですが、なかなかペースが上がらず(予想の範囲内でしたが^^;)、もうとっくの昔にフクヤマ君の龍馬は顰蹙のテロップとともにあの世に旅立ち、時代は戦国の世にさかのぼり、ツッコミどころが満載の新しいドラマが始まりました…

それにしても、大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』は、これまでにも増してシュールな作品に仕上がっていますね。架空の人物を扱った『獅子の時代』などを除き、デフォルメ度は歴代No.1ではないでしょうか。大河ドラマ関連のサイトや掲示板などを覗くと、斬新な人物設定やドラマの展開について行けず脱落した人々の魂の抜け殻が転々としている光景を目にすることができます。

ただ一方では、現代の女性からみた戦国像という新しい切り口を楽しめるとのプラスの評価の声もあります。幼児である(はずの)江が信長に意見をしたり光秀を問い詰めたり、果ては家康の伊賀越えに同行したりという設定も、こんなことでもさせないとドラマとして成り立たないということもあるでしょうね。また登場人物の性格をかなり強引に誇張して、"表面的にはデタラメだけど一部で本質をついている" というモノマネ的なウケを狙った路線に挑戦しているのかもしれません。しかしそれはそれで楽しみたいと思います。

今回このトップページを少し構造を変えて日記(blog)風にしてみました。たまに「人物編」も兼ねたものを載せて、あとでまた整理し直そうかと思います。 どうぞ、気長にお付き合いください。

また、トップページを整理し直している間に、東北地方で大地震と津波が発生し、未曾有の大災害となってしまいました。被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

[2011.3.14]
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>>>「幕末トラベラーズ」について

当サイトは、幕末という激動の時代を生きた旅人たちの足跡をまとめようと思い、立ち上げたものです。「史跡編」と「人物編」で構成していますが、人物のほうはまだほとんどできていません。2100年ころ、もしくは人類滅亡後までお待ちください。

史跡編のほうはなんとかほぼ当初の計画通りできつつありますので、史跡トラベラーの方のお役に立てば幸いです^^)v。

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