山口・湯田温泉

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「周布政之助碑」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

周布政之助は、文政6年(1823年)萩に生まれる。明倫館に学び秀才の呼び声高く、村田清風に教えを受けて藩政に参画。31歳で政務役筆頭となり吉田松陰門下生を抜擢し、財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力した。のちに桂小五郎や高杉晋作らが倒幕運動の中心となって活躍できたのは、周布政之助のバックアップによるところが大きい。また洋式軍備や海外情報活動にも力を入れ、大村益次郎を登用したり、高杉晋作の上海渡航や伊藤博文ら「長州ファイブ」の英国密航を助けたりした。

文久2年(1862年)には、長井雅楽(ながいうた)の航海遠略策が藩論の主流となった。航海遠略策というのは外国列強に対抗するためにまずは外国との交易を盛んにして国力をつけるべきであるという論理、つまり「将来の攘夷のために今は開国交易をすすめる」という論で、単純な攘夷論とは一線を画す。考え方としては極めて常識的でありのちの明治政府の国策がまさにそれであったのだが、この当時は対外問題以外に、朝廷と幕府(徳川家)の主導権争いという政局の構図があり、各藩の利害と相まって複雑な状況を呈していた。

周布も当初は航海遠略策に賛同する姿勢をみせていたが、久坂玄瑞ら松下村塾生らの説得を受けて藩論統一のため攘夷論を主張するようになった。ここで長州藩の保守派(いわゆる俗論派)と改革派(いわゆる正義派)とは完全に袂を分かつことになった。

周布は酒癖がわるく直言居士の性格から、文久2年(1862年)山内容堂に暴言を吐き、激怒した容堂が長州藩に彼の死罪を要求するという事件を引き起こしたため、謹慎処分となり麻田公輔(あさだこうすけ)と改名した。

文久3年(1863年)には八月十八日の政変が勃発。それまで尊皇攘夷の先頭に立って政局を主導していた長州藩は京都政界を追われ、元治元年(1864年)には長州軍が上京し御所で禁門の変を起こすにいたる。周布は高杉らとともに挙兵を止めようとしたが失敗。敗北した長州藩は朝敵となりさらに幕府から長州征伐を受ける事態となった。正義派(尊皇攘夷派)は力を失い、藩は椋梨藤太(むくなしとうた)らの保守派に実権をにぎられた。周布はこの状況にいたった責任をとり、元治元年(1864年)9月26日、山口矢原の庄屋・吉富簡一(藤兵衛)邸の庭において切腹、自刃した。享年42。

PHOTO

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(湯田温泉街を少し南へそれた住宅地に旧石州街道が通っている。手前方向が山口中心部。周布政之助の碑がある周布公園は道の左側にある。本来は矢原という地名だったが、昭和40年(1965年)に周辺一帯が「周布町」に変更された。

(周布公園は左側。碑の裏側が見える)

(周布政之助の碑。周布政之助の功績を称えて昭和6年(1931年)有志により建立された)

(碑の説明板)

(周布政之助の墓石。墓に刻まれた名は謹慎中に名乗った「麻田公輔」となっている。周布が切腹した吉富簡一宅はこの場所に近く、現在も子孫の方が住まわれているということである)

(墓の説明板)