薩摩藩上屋敷跡
(さつまはんかみやしきあと)
東京都港区芝5丁目
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薩摩藩上屋敷跡。現在はNEC本社ビルとなっている。当時の屋敷の広さは10ヘクタール(サッカーコート約14面分)ほどもあった。
HISTORY
薩摩藩の江戸屋敷はここ三田の上屋敷のほか、中屋敷(幸橋門内)、下屋敷(高輪)、西郷・勝の会談が行われた蔵屋敷(田町)などがあった。なお江戸初期においては、江戸城に近い幸橋門内(現・内幸町)の桜田屋敷のほうが上屋敷だった(大名家の上屋敷、中屋敷などの区別は時期によって変わることがある)。
嘉永6年(1853年)、ペリーが来航したその年に薩摩本国から、島津斉彬
なお、外様大名の女子が将軍正室となることに反対する声も多く、婚儀が行われたのは、安政3年(1856年)に右大臣・近衛忠煕
篤姫がはじめて薩摩藩上屋敷に足を踏み入れてから15年後、京の都では朝廷が日本の政治の主となることを宣言する王政復古の大号令が発せられた。西郷隆盛は守旧派を一掃し徳川家を武力討伐に持ち込むため、江戸で浪士たちを集め、放火や略奪行為などをさせて旧幕府側を挑発した。敵方から先に手を出させて討伐の大義名分を得るためである。この西郷のもくろみは図に当たり、江戸市中の警備を担当していた庄内藩らは薩摩藩邸(当所)を取り囲み、焼き討ちにした。なお、このとき幕府側の攻撃の犠牲となった薩摩藩士たちは、大円寺(現在は杉並区和泉に所在する)に葬られている。
この事件はすぐ京都に伝えられ、在京の旧幕勢力にも主戦論が広がり、軍を出動させることになった。こうして鳥羽伏見の戦いの火ぶたが切られたのである。
PHOTO
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