京都(伏見)

Google Map

「鳥羽伏見の戦い勃発地」は、地図上の(B)マーク付近です。ここへの行き方を調べるには、「大きな地図で見る」をクリックしてGoogleページに行き、(A)の空欄に、出発地点の名前(「○○駅」など)を入力してください。

HISTORY

京都朝廷が慶応3年(1867年)12月9日に王政復古の大号令を発するとともに、徳川慶喜に辞官納地を命じたが、慶喜は自分1個で即決はできかねるとして、とりあえずは恭順の姿勢をみせ、京都二条城を退去して大坂城に移った。
しかしその後の慶喜の動きに不審をおぼえた薩摩藩は、もはや政治的な駆け引きでは解決は望めず、開戦あるのみと決して、江戸で挑発的な破壊活動を行った。これに憤慨した庄内藩による薩摩藩邸焼き討ち事件の報が大坂に伝わると、旧幕臣のあいだで薩摩討伐を求める声が高まり、ついに慶喜は京都への出兵を命じた。

旧幕府軍の幕府歩兵隊は、淀・伏見方面から鳥羽街道を北上して京都入りを目指し、会津藩・桑名藩・新選組は、伏見奉行所を本拠地に伏見市街に展開した。これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、城南宮から小枝橋方面に東西に長い布陣を敷いて北上軍への備えとし、また伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置した。

3日の夕方に鳥羽街道、竹田街道を北上してきた旧幕府軍と薩摩軍の前衛が接触し、旧幕軍の先鋒を務める大目付・滝川具挙(たきがわともあき)と、薩摩軍の椎原小弥太(しいはらこやた)が押し問答を繰り返したが、そのうちに薩摩側が発砲。これによって戦端が開かれ、伏見方面でもその砲声を合図に激しい戦闘が開始された。

戦力は旧幕府側の1万5000に対し、新政府(薩長)側は4〜5000にすぎなかったが、旧幕府側の拙攻と薩摩藩の大砲の威力によって緒戦から新政府軍側が優勢となり、さらに翌4日新政府軍に土佐藩が参加し、加えて新政府側に朝廷から錦旗が与えられると、「賊軍」となった旧幕府軍は戦意を奪われ、各地で敗退した。

PHOTO

(写真クリックで拡大します)

 (京都南ICから新城南宮道を西へ折れると、鳥羽伏見開戦の地として名が残る小枝橋が見える)

 (鴨川にかかる小枝橋。奥行き方向が京都市街。幕末当時には現在の小枝橋よりも手前(南側)に橋がかかっていた)

 (ひとつ前の写真の右方向。古い城南宮道で、この先の交差点に「鳥羽伏見戦跡」の碑が立っている)

 (鳥羽伏見戦跡の碑)