大久保利通銅像【PHOTO 1】

大久保利通銅像

■大久保利通銅像 (諸事洋風を好んだ大久保利通に似つかわしく、さっそうとフロックコートをひるがえしている姿が銅像となっている)

大久保利通銅像

■大久保利通銅像

大久保利通銅像

■大久保利通銅像 (銅像の背面)

大久保利通銅像

■大久保利通銅像 (大久保が座右の銘とした「為政清明(いせいせいめい)(政を行う者は清らかであるべしという意味)」。大久保は独断専行の政治家で幕末期には陰謀の首魁のように言われたりしたが、私心を持って事を行うことはまったくなかった。それどころか国家の予算が足りない部分に私財を投じて補填したりしたため、死後も財産は残らず、膨大な借金だけがあったことが判明したという)

大久保利通銅像

■大久保利通銅像 (銅像が建つ高見橋は市内を流れる甲突川(こうつきがわ)にかかり、交通の中心・鹿児島中央駅と、街の中心・天文館(てんもんかん)地区をつないでいる(右へ行くと繁華街の天文館へ))

大久保利通銅像

■大久保利通銅像 (大久保の銅像は写真の大きなビルの左端あたりに重なる位置。道路をはさんで、甲突川沿いの「維新ふるさとの道」の入口(右側の木立のあたり)と対面している。ゆかりの場所といえばそうなのだが、維新の元勲の銅像としては、決して目立つ場所でもなく、落ち着いて眺めやすい場所でもない。なぜこんな場所に銅像が建っているか、それは鹿児島市民の複雑な感情を示しているといえるだろう。明治政府で国家のかじ取りを担った大久保は、西南戦争で故郷の鹿児島を攻め、西郷隆盛をはじめ多くの旧薩摩藩士たちを葬ってしまった。「せごどん(西郷)」が圧倒的な人気を誇る地元にあっては、西郷の仇である大久保利通はまったく不人気なのである。この大久保の銅像は大久保没後100周年の昭和54年(1979年)にようやく建てられた。一方、城山を背にし堂々たる存在感を放つ西郷隆盛像は、昭和12年(1937年)に完成している)

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